名所・旧跡めぐり
第1景 東祖谷村
東祖谷村 平家落人伝説

「屋島の合戦」に敗れた平 国盛率いる30余名は、安徳天皇をお護りして、讃岐山脈を越え、阿波の吉野川をさか登り、今の三加茂町(徳島)を通って井川町(徳島)に入り、そこで1ケ月半ほど留まっていましたが、そこは安住の地とはならず、さらに奥深い四国山脈の祖谷山に入ったという伝説があります。
 祖谷に入った平 国盛は、安徳天皇のご守護と平家の三種の神器の一つである「草薙の剣」を安全なところでお守りし、平家の再興を企ておりましたが、安徳天皇の崩御とともに、一切を断念し天皇と平家一門の冥福を祈る毎日を祖谷の雄大な自然の中で送られたと伝えられています。祖谷の伝説の中には国盛と共に落ち延びてきた人たちは自分たちが、平家の裔であることをひた隠しにし自らの墓・子孫にも石碑を建てることを禁じたと言われています。武将の勇猛な面と細心で情の深い面影が浮かびあがります。
当時の平家にまつわる場所・言伝え等をここでご紹介いたします。

 


鉾杉 (県の天然記念物に指定)

鉾杉は、鉾神社の社業の中に杉の木が生い茂っている中でも最も大きく、力強く、そして美しく、天を貫く勢いでそびえ立っていました。根本の部分は根がしっかりと地につき生命力の強さを感じます。
平 国盛は、祖谷の地に永住しようとは考えていませんでした。この地を離れた後、再び山を下り京に攻めのぼる計画でした。離れた後はもう二度とこの地を訪れることがないと考え自分達が祖谷にいたというあかしを残そうと、木が成長するように、平氏の勢力が大きく育つよう祈り、私がいなくなっても、永遠に成長を続け、やがて大樹となり、そして人々はその木を見るたびに平氏の隆盛を思うだろう。と杉の木を選んだそうです。
そして、見晴らしのいい、大枝名の聖地を選び植樹をしたと言伝えられています。
また、この杉の下には平 国盛が持っていた「平家守護神の鉾」が埋められているとも伝えられています。
この杉は、平 国盛の志と歴史の重みを深く感じさせられます。

樹齢       約800年
周囲       約11m
高さ       約35m
木の広がり(横) 約25.5m


平家の馬場 (東祖谷村村指定の文化財(史跡))
太郎山
次郎山
四国で2番目の高山である剣山の頂上(太郎山、次郎山)には、はるかかなたに広がるなだらかな草原があります。(9月初めには、りんどうが太陽の光を気持ちよさそうに浴びあたり一面に花を開かせています。)祖谷には平坦で広い場所がないため、平家の落人たちは平家の再興を願って、馬の訓練をこの場所で熱心に行っていたと伝えられています。おだやかなこの草原で800年前に源氏との戦いにそなえた訓練をしていたと思うと、今にでも山陰から馬の足音が聞こえてきそうになります。雲の上での戦闘訓練........、幻想的に感じます。


刀掛けの松 (東祖谷村村指定の文化財(史跡))

平家の馬場(剣山の頂上)へ行く途中に「刀掛けの松」という松の木があります。戦後(第二次世界大戦)の台風で倒れ朽ちていますが、この松の木には安徳天皇の細心で心暖まる話が伝えられています。
 安徳天皇は、平家の「草薙の剣」を剣山の頂上にある高くそびえる大岩に納め、平家一同の盛隆を祈願されたそうです。その剣山登頂途中の休息時に「草薙の剣」を持った従者に目をとめ、顔中に汗が流れているにもかかわらず、拭うこともせず威儀を正している姿をみて強く心を打たれ、剣を置いて汗を拭くよう声をかけられたそうです。が、従者はとまどいためらいました。安徳天皇は、再び剣を縁起のいい松の木に掛けて汗を拭うようにと言葉をかけたそうです。それ以来平家の落人たちは、訓練でここを訪れるたびに「刀掛けの松」と呼び、枯れ果てた姿の今でも伝説として残されています。


安徳天皇御火葬場 (東祖谷山村 有形文化財指定)

安徳天皇は祖谷にたどりついた後、京上という地に御所を完成させたが、それも束の間でその年の台風に根こそぎ流されてしまいました。悲運の安徳天皇は「朕の行くところは、蛙の声のするところである。」と言い、平 国盛は、その地にふさわしい、秋だというのに蛙の声が聞こえる場所をさがしあて、そこに新御所を建立しました。その地が今の栗枝渡(地名)になります。安徳天皇はこの地を大変気に入り、よく外に出かけ散歩をしたそうです。しかし、平穏な日々は長く続くことがなく、病に犯されこの地で亡くなりました(9歳)。側近で安徳天皇を護りつづけてきた人々は生前に楽しく遊ばれたこの地で遺体を火葬によって清め奉ったそうです。
 とても静かな樹木の茂る森の入り口に栗枝渡八幡神社があります。その拝殿の右奥に石が積み重ねられた上に小さな『ほこら』にしめ縄が張りめぐらされていました。そこが安徳天皇のご火葬場と言われています。ここは、誰も足を踏みいれてはいけないと昔から言い伝えられており、また、どんなにたくさんの雪が降っても積もらないそうです。まさしく聖地を感じます。


阿佐家(平家屋敷) (東祖谷村 有形文化財)
安徳天皇の崩御後、平 国盛は、源氏が攻めにくく、守りやすい自然の条件が揃ったこの地を選び余生を過ごしました。家屋の東、北は非常に険しい山。南側は急斜面、西側は、谷という地形は、最も隠れ里に適した場所です。
今の屋敷は約150年前に火災にあい建て替えをしています。以前の建物については、詳しいことが残されていません。
この屋敷には平家の象徴である「平家の赤旗」二旗が保存されています。


大旗(本陣用)

  大きさ

縦 3.03メートル
横 1.11メートル

  色

赤と紫が交互に染められていた。

  文字

上部 八幡大菩薩(墨書)←弘法大使が鳩文字で書いていると伝えられています。

ところどころに弓矢があたった穴があいている。


小旗(戦陣用)

  大きさ

縦 1.99メートル
横 0.52メートル

  色

赤色で染められていた。

  文字

上部 八幡大菩薩(墨書)←嵯峨天皇が書いたもの伝えられています。

ところどころにポツポツと血の後が残っています。


 天正13年に徳島の蜂須賀家政は、旗が武器の種類になるとし、反乱を恐れ、表装し、軸物で保存するよう命令をだし、現在では掛軸として保存されています。
本物の赤旗は、一般には公開をしていないようです。複製が、東祖谷民族資料館に展示されています。



東祖谷村の平家の落人にまつわる数ヵ所に足を運んだあと、最後に赤旗のお話しを聞かせていただいたのですが、800年前の平家の落人たちの平家再興への願いと夢とはうらはらな悲しさと無念さをひしひしと感じました。
戻る